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AKB48 – モラルの低下、利用される女性たち、そして日本の道徳のあり方

Aug 3, 2011

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ここ数年で一気に人気を矛した女性シンガーグループ、AKB48、は今や日本を征しアジアならず欧米進出まではかろうとしています。しかし今一度AKB48というグループの社会的役割・影響について考える必要があると思います。ファンの方やAKB48のメンバーを攻撃するつもりはありません、が日本での道徳観が懸念される中、AKB48がもたらす社会現象は90年代の“オタク現象”につづき、異常なものがあると思われます。ここでは、そんな日本の若者・一般市民の間でのポップカルチャーに対する社会現象を探索していきたいと思います。

ここで扱っていく、いくつかの問題点としては、1)AKB48=ポップチャルチャーの名の下で、利用される若い女性たち;2)大人たちの説得により、自分たちが歌手として、また日本のアートを率いる代表グループとして思い込まされている現状;3)日本社会での若い女性のあり方、また男性の勝手な理想像等を、“アート”を盾に市民の頭に植え付けている事実;4)これらの行動全てが今後の日本のアート(芸術)の形を下品化させ、社会の女性だけでなく、参加者たちの美観を濁らせている事;そして5)熱狂的なファンの支持を“世間からの歌手・タレントとしての業績の認識”と思い込み、より激しいパフォーマンス(‘高い’ハードル)を求められ、利用されているとも気づかず、自分たちが“才能のあるアイドル”として、女性の人権また社会での地位を格付け、女性蔑視を反映させる道具として利用され続けている事。これらの5点に中心を置いて語っていきます。もちろん、AKB48に限った問題ではありません、がAKB48はこれら、過去数十年に渡って行われてきた日本の社会のメディアを使った女性蔑視の道具として、高峰を達し、一言ならず日本の道徳のあり方について再度語られることが必要だと思います。

まず初めに明らかな事実から。AKB48というグループは“会いにいけるアイドル”をテーマに活動しています。よって、公共での公演はもちろん、“握手会”などを行いファンと身近な存在を重要視しています。逆に言えば、ファンサービス重視のメディアです。これは従来少しは重要視されてはいた、歌手としてのスキルや曲の目新しさ等を完全に無視した構成です。よって無論メンバーの数は増えていくばかりです — なぜなら、曲の目新しさよりもメンバーその物の新しさが存続には必要だからです。中身のない曲は新メンバーの“かわいさ”によって補われます。ここでどうしても気になるのは、歌手グループだったはずがいつの間にか“ビューティーコンテスト”に変わっている事です。初めの疑問は、「ではなぜ初めからビューティーコンテストとしてデビューしなかったのか?」もちろんそれは“コンテスト”はその都度その都度ファンが入れ替わる単的イベントだからです。歌手グループにすることにより、プロデューサーの秋本康は単的ではなく“連続的・持久的”なファンイベントに作り上げたのです。さて、ではこれがなぜ悪いのか?その理由はグループの本質(essence)にあります。このグループは男性ファン中心に構成されているためメンバー全てが若い女性です。一番若いメンバーでは14歳、年上では25歳までのメンバーで構成されています。ファンの確保はまず根強い支持力を持つ、いわゆる“オタク”達が重要視されます。彼らの好みは基本的に単調なのでテーマは単純。年下の若い女性、彼女達に会える・接触できる事、そしてエロティシズムです。ファン投票により順位やレコード収録のメンバーが決められる事などを付け加え、ファンにコントロール感を与える事もメディア界での成功の要素の一つです。この点海外等で人気のファンによる投票でベストシンガーが決められるテレビ番組“アメリカン・アイドル”などとの接点はあります、が根本的に異なるのはファンの投票が日本では歌手のスキルではなくただ単に“かわいさ”や“若々しさ”といった、本来の目的とは全く分けの分からないほどかけ離れた理由が投票の鍵を握っていることです。ファンの人達は反対するかもしれません。しかし、15人ほどの人が一緒に歌って踊ってる状態で誰が一番歌が上手いかなど、分かるわけがありません。ファン投票の利点は歌手一人一人のスキルを吟味して、応援できるところにあります。だからファン投票のコンセプト自体なぜグループ行動が主なAKB48に当てはまるのか不思議です。これはまさに“人気がある所・いいとこどり”構成によるつぎはぎ細工・パッチワークにすぎません。実際、最近CG構成された新メンバー“江口愛美”が良い例です。本来、パッチワークは所詮つぎはぎ、フランケンシュタイン博士の作ったモンスターを生み出し、機能しない作品を作る事が多いのですが、このグループは世間で成功を収めています。それはなぜでしょう?簡単な事です、AKB48は機能(スキル)重視ではないからです。元々機能がないものなので、形(見た目や一体感)さえ維持すれば存続可能です。よって、中身の無いアイドル、ファンが生命の供給源の、いわゆる愚像的なグループに作り上げられたわけです。彼らの人気は幻影にすぎません、ファンの想像が具体化されたものです。ですから、活動内容はファンの承認される物に限ってきます。“かわいさ、少女の若々しさ”が売りで始まったこのグループはファン達にその実体化を与えられ、これからの存続のすべはファンの“承認”に左右されていきます。これが意味しているものは一つ、ハリウッド映画の人気作の続編の用に、ひたすら“過激さ”を増す事です。それが出来なくなったとき、このグループは消滅するでしょう。ただ、ここで問題なのは、メンバーに未成年の女性が多い、と言う事です。17歳以下のメンバーがセクシーな下着姿で歌ったり、メンバー全員がビキニ姿で踊ったりと、歌手グループとしては意味不明な現象が起きています。「ヘビー・ロテーション」という歌では、“ロリっ娘ぶり”を強調し、歌手にランジェリーで、“あなたが欲しい、あなたが必要なの”と、メイド喫茶的な趣味で歌わせたり、また「制服が邪魔をする」では、高校生の援助交際を促す・認めるようなビデオ・歌詞を出しています。明解な事なので分析は不要ですが、反対する人達へ質問があります。プロモーションビデオでは、女子高生が学校帰りに制服のまま遊び歩き、夜には人通りの無いトンネルの中で中年の会社員と会い、少し戸惑いながらも中年男性について行き、夜が明けると彼女は町中を考え事・後悔をしているかのように歩いている姿が映されます。そして最後に彼女の顔には笑みが浮かびフェイドアウトです。これは援助交際支持のコマーシャルの何者でもありません。先ほどの「ヘビーロテーション」のプロモ映像では、ランジェリー姿の女の子がキスし合ったり、抱き合い一緒に風呂に入ったり、ゼリーを口の周りにつけたり、チェリーをセクシーに食べたり、と一体歌詞と何の関係があるのか、ファンの人の正気を疑うような映像がたくさんあります。もちろん、これらのパフォーマンスは児童ポルノに近いものがあります。こんなことをして一体彼女らの親は何をしているのか?という疑問が海外では出ています。そして、これらの児童ポルノ要素を美学として受け入れている参加者の女性達、またそれに気づいていても何も言わないファンの人達は、日本のモラルの低下をしみじみ世界に知らしめています。AKB48のメンバーに言います。もし歌を聴いてくれて、彼女達をアーティストとして見ていてくれる、と本当に思うなら、普通に服を着て歌ってみて下さい。なぜプロデューサー達はいつもあなた達にビキニ姿で歌わせているのですか?夏だから、ですか?そんなわけの分からない理由で納得しないで下さい。また、有名になる、という事の重大さを自覚して下さい。あなた達が良くても(給料もいいのだろうし)、あなた達がしている事は世間に男性基準の社会を反映させていることなんですよ。有名になり、今は誰もがあこがれの的。ということは若い女の子は、釘付けになっている男の子達を見て、自分もああいう風に過激にキュートにならなきゃ、と若い女性の社会でのあり方を印象づけています。日本には女性差別がまだ根強く残っているのも無理はありません。なぜなら、あなた達のそういった行動が女性のオブジェ化をより強く社会に刻みこんでいるのです。AKB48のようなグループを認める一方で、女性差別を批判する、というのも大した偽善主義です。自分の価値を見失わないで下さい。有名になったんだから、世界を良い方に、差別の無い男女平等を推進するような立派な歌手グループになって下さい。有名になる、という事は社会へ対する(特に若い世代に)影響力があるということです。また、それと同時に責任も伴います。それを忘れないで下さい。

こういったグループが出てくるのも、日本では哲学の思想がほぼ無いに等しい事に比例していると思います。70年代・80年代に盛んになったフェミニズム(女性運動)も完全に消滅しています。これは日本の政治の姿勢が強い影響を及ぼしていると思われます。書店に西洋哲学の書物がほとんどないに等しい、というのも問題です。ある大きな書店で少しの間働いていた経験がありますが、一度も西洋哲学を手にするお客さんはいませんでした。それもそのはず、西洋哲学の本は入荷が無いに等しいとともに値段が高いんです。大抵の有名どころは(アリストテレスやプラトンなど)一度入荷をすると、返品が効かない出版社からしか出ていません。一体日本は何をやっているのか、と疑問に思います。なぜ西洋哲学で東洋哲学ではないのか、と疑問に思う方もいるかもしれませんが、基本的に東洋哲学は精神的、自然や瞑想を中心とするもので、社会での道徳のあり方や政治、人間の思想や人権問題はあまり扱っていません(もちろん現代・戦後の東洋哲学は少し違うかも知れませんが、現代の東洋哲学は日本では医学以外ほぼ無いに等しい状態にすでになっています)。70年代の女性運動の発端もフランスのフェミニスト哲学者、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)の書いた「セカンドセックス」(第二の性)がきっかけになっています。その本も今では日本では廃盤になっています。日本では哲学の教育というものをもっと真剣に取り入れることが必要だと思います。今の日本社会はAKB48のようなポップカルチャーを見ても分かるように、まさにボーヴォワールの言う、女性が無知のうち差別をはびこる社会を作っています。

“経済的に優位な地位を会得した男達、女性から見た彼らの社会的便利な役割、結婚による住の安定化、そして男性に支援される価値や心強さ、こういったものが女達に男を喜ばせよう、という思いに繋がる。女性達はまだほぼ完全に男社会により服従された状態。これによって、女性は自らの女性としての意思で物事を決めるのではなく、男性社会が望むように自分の理想を合わせて生きている。” ボーヴォワール、第二の性(de Beauvoir, from “the Second Sex”)

AKB48はまさに男性社会に洗脳され切った(また洗脳社会に生まれた)女性の現れにしかすぎないように思えます。こういった人権問題を減らすには日本の書店も哲学書を並べる時期だと思います。

Aug 3, 2011

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